ORIGINAL CONCEPT

グリッドフレームシステムは、ニューヨーク州立大学バッファロー校建築学科における私、田中稔郎の学位論文(1996.1.31提出)に、端を発しています。グリッドフレームシステムがどのようなコンセプトから生まれたか、にご興味のある方は、論文(5章で構成)の第1章をここに公開しますので、是非お読みください。また、このコンセプトを元に、さまざまな実践を行う中で"創造性の連鎖"という空間づくりの手法、さらには"SOTOCHIKU"にたどり着きました。ご意見、ご感想をお聞かせ願えれば、幸いです。

第1章 汚し得る美(汚されたもの)

1-1 はじめに

例えば、裏通りを歩いて、建物の壁に注目してみよう。そこには、雨だれの跡が見られるかもしれないし、ペンキがはがれているかもしれないし、何かがぶつかった傷跡がついているかもしれない。そのような壁が表通りで見られることは少ない。なぜだろうか。それは、雨だれの跡や、ペンキのはがれや、何かの傷跡などが、ふつう喜ばしいものとは思われていないためである。表通りでそのようなことが起これば、すぐに修理されたり、清掃されたりして、できる限り建物が新しかった頃のままの状態を保とうとするはずである。しかし、裏通りならば、まあいいや、ということになる。

IMAGE6-12Fig.1.1

このような雨だれの跡やら、ペンキのはがれやら、何かの傷跡やらをクローズアップして撮影した「リバース」という写真集(Fig.1.1 撮影:宅間國博氏)がある。表通りのそのようなものを修復したばかりの人であれば、まあご丁寧に、と皮肉のひとつもいいたくなるところだろう。しかし、この写真集が全く美しいのである。なぜこれまで気付かなかったんだろう、と自分が今までそのようなものを無視して歩いていたことが不思議に思える。

私はこのような美しいものを「汚し得る美」と呼ぶことにした。これまで、美といえば、美術館の中にあって、一定の距離をおいて眺め、触ったら叱られるような「汚せない美」ばかりだと思っていたからである。建物の壁の雨だれの跡や、ペンキのはがれや、何かの傷跡ならば、近寄ろうが、触ろうが、誰も自分を叱りはしないだろうし、たとえ少し粗っぽく接して、多少それらの表面が変化したとしても、依然として、雨だれの跡や、ペンキのはがれや、何かの傷跡は、その美の質を少しも損なうことなく、自分の前に在るに違いない。実際に汚し得るのである。

これから私は、このような「汚し得る美」について書いていこうと思う。この節では、裏通りの建物の壁を例にとった。では、他に、「汚し得る美」はどのようなところに見られるだろうか。この章では、数々の例を引きながら、私の「汚し得る美」はどのようなものであるかを少しずつ明確にしていくつもりである。

1-2 汚し得るもの

「汚し得るもの」がすべて美しいわけではない。その中には、私が美しいと感じることができないものも多い。つまり、「汚し得る美」の集合は「汚し得るもの」の集合の中に含まれる。まずは、私の周りの「汚し得るもの」を探してみよう。例えば、ティッシュペーパー、ナプキン、ハンカチーフ、下着、トイレなどはそうだろう。人間が生きていく限り、汚れは必ず伴うものである。しかし、汚れはふつう否定的なものとして存在する。そこで、汚れをいかに処理するか、ということが問題となってくる。上に挙げた例は、この問題を解決するための道具である。これらのものは、使用されてそのものが汚れた後、捨てられるか、もしくは洗浄されて汚れる前の状態に戻るような「システム」になっている。

それに対して、前節に挙げた裏通りの建物の壁も「汚し得るもの」として在る。両者の違いはどこにあるのだろう。

「汚し得るもの」は、「汚すことを許可されたもの」と言い換えてもいいだろう。両者の違いは、「何が汚すことを許可するのか」という点に凝縮されるように思える。ここで、ある規則もしくはシステムを共有するものの集合を「共同体」と呼ぶことにする。前者はシステムと書いた通り、はじめから、私たちの生きる共同体のシステムの中にある。つまり、「共同体」が、汚すことを、それが否定的なものであると決めつけたうえで、許可しているのである。しかし、後者においては、そのようなシステムは存在しないばかりか、汚れが否定的なものであるという前提すらあいまいになってしまっている。では、何が汚すことを許可するのか。「すでに汚されている」という事実が、汚すことを許可するのではなかろうか。

「すでに汚されている」ものは、さらに汚そうとしても、それ以上汚すことが物理的に困難である。これは、熱力学の第2法則、すなわち、エントロピー増大の法則によって説明できる。エントロピー増大の法則とは、通俗的にいえば、時間の経過とともにエントロピー(乱雑さ)を増していく、という法則である。例えば、角砂糖を水の中に入れるとそれは時間の経過とともに溶解し、その逆は起こらない。ものが汚れていく、もしくは壊れていく、といった過程も同様に説明される。そして、エントロピーが増大しきったもの、例えば、溶解しきった砂糖はもうこれ以上変化をしないように、汚れきったもの、壊れきったものはもうそれ以上変化をしないのである。したがって、ものは汚れれば汚れるほど、それ以上は汚れにくくなってくる。

また、この問題は、汚された対象の問題だけでなく、私の汚れに対する受け取り方の問題にも関わっている。私には、きれいなものと汚れたものとの間に、はっきりと境界線を引く傾向がある。例えば、ティッシュペーパーに一点のシミがつけば、それはもうすでに汚れたものと見なされるように、何かが少しでも汚されれば、それはこれからだんだんと汚れていくものではなく、はっきりと「汚れ」の範ちゅうに入ってしまうのである。したがって、少しでもすでに汚されているものは、さらに汚されたとしても、それが私に与える印象という点からいえば、一般にあまり変化がないのである。

これらの理由により、対象が「すでに汚されている」という事実が、それをさらに汚すことの否定性を弱め、もしくは打ち消し、さらに汚すことを許可するのである。

私がいう「汚し得る美」の対象になり得るのは、後者の「すでに汚されている」ものの中にある。なぜなら、前者のように汚し得るという条件が共同体から決まりとして与えられている場合は、人は対象と向き合う必要がないのに対し、後者は、人が「すでに汚されている」という対象の状態そのものに目を向けることによって初めて、汚し得るという条件が出てくるからである。「汚し得る美」は、このように、人が何かと正面から向かい合い、1対1の関係を結ぶことによって、初めて感じとることのできるような美である。

1-3 汚し得ること

「すでに汚されている」ものの「汚し得ること」は、それと正面から向かい合った人間の行動にどのような影響を与えるだろうか。

Image2-3Fig.1.2

Fig.1.2はある建物の壁をクローズアップしたものである。このような壁がすぐ目の前に大きく広がっているとしよう。このような壁に対して、人はどのような印象を持つだろうか。その答えは、まさに人によって様々であろうが、大きく分ければ、肯定的な印象を持つ人と否定的な印象を持つ人の二つに別れるだろう。

この壁に対して肯定的な印象を持つ人は、この壁に接するときに何か「気楽さ」のようなものを感じているのではないだろうか。それは、対象を汚さぬように気遣いをする必要を感じないところからくるだろう。この気楽さによって、人は落ち着きを感じ、心に余裕を与えられるかもしれない。

逆に、この壁に対して否定的な印象を持つ人は、この壁に対して、ある種の「近寄り難さ」を感じているのではないだろうか。それは、対象ではなく、自分自身を汚さぬように気遣いしなければならないという必要性を感じているからだろう。この近寄り難さによって、人は神経をとがらせ、心の余裕を失ってしまうことにもなりかねない。

私は、美を感じることは少なくとも何らかの肯定的な印象を持つことなくしてはありえないと信じる。この両極端の例から、人が「汚し得る美」を対象に見いだすことの非常に重要な条件が浮かび上がる。つまり、それは、「自分自身を汚し得ること」である。すでに汚されたものに触れれば、自分も必ず汚れることになる。その準備が自分にできているかどうか。それができている者は、この壁に対して「気楽さ」を感じ得るであろうし、それができていない者は、この壁に対して「近寄り難さ」を感じてしまうことを避けられないだろう。

むろん、同じ人間であっても、例えば、フォーマルな服装をしているときと、カジュアルな服装をしているときとは、近くの「すでに汚されている」ものに対する印象は異なることがあるだろう。このように、人が、ある対象から、「汚し得る美」を感じるか否かは、対象だけの問題ではなく、それに接する自分自身の問題、もっといえば、自分自身の生き方に関わる問題ということができる。

1-4 汚し得る美 表面と形

汚し得る美とエントロピー増大の法則との関係は1-2で少し述べた。ここで、汚れの意味を拡大し、「エントロピーが増大した状態一般」を汚れと呼ぶことにする。つまり、汚れは、「壊れ」をも意味することができるとする。

このような仮定にしたがえば、「汚し得る美」の対象となり得るものには、次の2種類があると考えてよいだろう。

  1. ①汚し得る表面
  2. ②壊し得る形

例えば、ここにひとつの木片が転がっているとする。これを放っておけば、やがて、表面に苔が生えるかもしれない。それは、私がその上を歩いたり、手で触ったりしたとき、多少靴の泥がついたり、苔がとれたりしても、やはり行為の前と同じような印象を私に与えるかもしれない。それを私が美しいと感じれば、これは「汚し得る表面」から汚し得る美を感じとったからである。

時が経つとともに、この木片も雨などによる風化作用を受けて、次第に形を変えていくかもしれない。それは、私がそれにつまづいたり、その上にものを落としたりしたとき、角が壊れたり、ひびが入って全体が変形したりしても、やはり行為の前と同じような印象を私に与えるかもしれない。それを私が美しいと感じれば、これは「壊し得る形」から汚し得る美を感じとったからである。

「汚し得る表面」が2次元的なものであるのに対し、「壊し得る形」は3次元的なものである。上の例を見ても分かるように、「汚し得る表面」は、より近い距離から見ることによって認められ、「壊し得る形」は、少し距離をおいたところから見ることによって認められる。前節で述べたように、「汚し得る美」を感じるか否かは、対象だけの問題ではなく、それに接する自分自身の問題でもあることを考慮すれば、この対象と見る側の間の距離の問題には、充分な注意が必要となるはずである。

1-5 汚し得る美 無秩序と秩序

エントロピーが増大するとは、大まかにいえば、秩序から無秩序への移行と捉えることができる。従って、「すでに汚されている」ものは、汚し得る表面にせよ、壊し得る形にせよ、ある程度「無秩序的なもの」としてある。しかし、私たちは生きていく上で、常に何らかの秩序を自分の周りに必要としている。私たちが日頃何かを集めたり、整理したり、システムをつくったりするのも、私たちにとって無秩序的なものを秩序化するためである。秩序化することによって、私たちは自分の生活を安定させ、ものごとを効率的に運べるようにする。このように秩序と切り放すことのできない世界に生きている私たちが、「無秩序的なもの」に出会うとき、私たちはその中に無条件に美を求めることができるだろうか。

ここで、この章の冒頭で述べた「リバース」という写真集の中の写真を振り返ってみよう。私はこれを美しいといった。これはある古い建物の壁のごく小さな部分を撮ったものだそうである。では、この写真の対象となった壁自身の前に私が実際に立ったとき、私はその壁を美しいと感じるだろうか。私の経験からいえば、私はそれを美しいと感じることがほとんどできない。その理由は、「無秩序的なもの」が過剰に目の前に広がっているからである。私は自分の存在に不安を感じ、それを恐れこそするが、それを美しいと感じる「余裕」を自分に見いだすことができない。私が何らかの肯定的な印象をそこから受けるためには、ある程度の秩序がそこに必要なのであり、その秩序が私に「無秩序的なもの」を見つめる「余裕」を与えるのである。その写真を私が美しいと感じたのは、写真の外枠が、「無秩序的なもの」を中に閉じこめる秩序の働きをしているからであろう。秩序がそこにあることによって、私は安心して、「無秩序的なもの」と向かい合うことができたのである。

私がここでいいたいのは、実際のものよりもその写真の方が美しいということではもちろんない。むしろ、私の関心は実際のものにしかない。ここで私がいいたいのは、実際のものから、直接「汚し得る美」を感じとるためには、「無秩序的なもの」が広がる空間に何らかの秩序を導入することが必要だということである。

私が過剰に広がる「無秩序的なもの」を前にするとき、私はこれを直視することを避ける。それを直視するために便利なものは、共同体によって与えられている無秩序という「概念」である。この概念を通して、無秩序的なものに向かい合うとき、そこに見えるものは既に在るがままの無秩序的なものではない。そこには私と対象との1対1の関係は成立し得ない。そのとき、無秩序的なものは概念という秩序に既に変換されているからだ。

「無秩序的なもの」をあくまでも「無秩序的なもの」のままで感じとること。あらゆる「概念」を排除すること。「汚し得る美」はそのような姿勢の中からしか生じ得ない。「無秩序的なもの」に何らかの秩序を組み合わせることは、その助けになるのではないだろうか。

1-6 汚し得る美 偶然と意図

モダンアートには「無秩序的なもの」を作品としたものが多い。私たちは、それ以前のアートと同様に、それらの実物を美術館で見るか、雑誌や作品集でそれらの写真を見るかによって、それらについての情報を得ている。美術館で見る場合は、例えば、絵の掛かっている単色の壁が秩序を与えているだろうし、雑誌や作品集はいうまでもなく写真の枠が秩序を与えているだろう。いずれの場合も、結果的に私たちは無秩序的なものを秩序と組み合わせて見ることになっている。従って、私たちはそこから「汚し得る美」を感じとりやすい環境を、ほとんど偶然に与えられているといっていい。

11b9d370dfcc46bee516f7ad9e457345Fig.1.3

ここで、タピエスの作品(の写真)を見てみよう(Fig.1.3)。この作品は、私にとって、「汚し得る美」の対象と呼べるものであり、私たちはこれと同じような質感や色を、裏通りの建物の壁に見つけることができる。つまり、裏通りの誰も見向きもしないような壁の一部が、美術館の中に運び込まれてスポットを浴びているようなものだ。対象としては、両者にはなんら違いはないといって間違いなかろう。唯一の違いといえば、一方が人間が意図的につくったものであるのに対し、もう一方は自然の風化作用によるものか、人間が意図しなかったところに偶然に現れたものだということのみである。それは、両者が現在の姿に至るまでの経過の違いである。

経過の違いは、そのまま現在の在り方の違いとして表れている。タピエスの作品は、従来の美術作品と同じ扱いを受けて、美術館では触ることすらできない貴重品として在る。裏通りの建物の壁は、存在自体も忘れられて、放ったらかしの状態で、しかも一般には否定的なものとして存在する。

1-2で、「汚し得る美」の対象は、「すでに汚されている」ものだから、物理的にも、それを見る人間の印象としても、それ以上は変化しにくいことを述べた。これは、「汚し得る美」の「強さ」を表している。「汚し得る美」は、人間が多少気まぐれに対象を粗っぽく扱ったりしたところで、その美の質を変えない、という「強さ」を有しているのである。

タピエスの作品も、同じような強さを有している。しかし、にもかかわらず、私たちは、それが美術作品である、という理由で、その作品との距離を従来の美術作品よりも縮めることができないのである。

理由はそれだけだろうか。私は、人間が美を目的としてつくった美が、「汚し得る美」になり得ることに対して、懐疑的である。それは、確かに、「汚し得る美」の対象にはなり得るだろう。しかし、「汚し得る美」の対象から、人々が常に「汚し得る美」を感じとれるとは限らない。例えば、古びて風化した表面を装った煉瓦が市販されている。それで新しい壁をつくれば、確かに古びた様子の壁ができるだろう。そして、それは「汚し得る美」の対象にもなり得るだろう。しかし、それに対する人々の態度はどうか。例えば、1-3に述べたように、「自分自身を汚し得ること」という条件を人々は受け入れるだろうか。

タピエスが何を考えて、どのようなプロセスでその作品をつくったか、ということについて、私は何も知らない。だから、その作品をただつくられたものであるということだけで、古さを装った煉瓦と同じレベルで論じることは許されないことは承知しているつもりである。ただ、ここで私は、「汚し得る美はつくれるか」という問題を提示したかったのだ。

これについては、簡単には答えることができない。対象をつくることはできるが、それはおそらく、つくられずに表れたもののようには機能しないのではないか、という予感があるだけである。私は、「つくる」ということを理性による他の人間のコントロールと簡単に解釈して否定する者ではない。もし、それをつくれるのであれば、つくることに大賛成なのだ。つくろうとしても、つくれない、という予感。このことが私に問題を突きつけるのである。

1-7 おわりに

以上、「汚し得る美」についての私の考えを、例を挙げながら、いろいろと書いてきた。ここで述べてきた要点は次の通りである。

  1. 1.汚し得る美の対象になり得るのは、すでに汚されているものの中にある。
  2. 2.汚し得る美を対象に見いだすことの重要な条件として、自分自身を汚し得ることがある。
  3. 3.汚し得る美の対象には、汚し得る表面と、壊し得る形の2種類があり、人間が汚し得る美を感じとるための対象との距離は、それぞれで異なる。
  4. 4.汚し得る美を感じとるには、無秩序的なものに秩序が組み合わされることが重要である。
  5. 5.汚し得る美はつくれるか、という重要な問題が在る。

以上のような考察が、汚し得る美を人間が感じとることのできる建築を実現するための助けになることを信じている。