私たちが生まれてくる前は、私たちは死んでいたのか、それとも、生きていたのか。
もしかしたら、こういうことがいえるかもしれない。
私たちは、生まれてきたときには、もう既に先人たちの生命の一部として何億年も生きてきて、
最後の瞬間を一つの生命体として過ごすために生まれてくるのではないか。
私たちは生まれてきたときに、他の生命体の一部という存在から解き放たれて、最も自由な存在になると同時に、
逆に、記憶によって他の生命体の一部である状態を常に願望として抱くことを強いられながら
決して他の生命体と合一できないという、最も不自由な存在になるのではないだろうか。
- - - おそらくは、このような矛盾を抱えて生まれてくるためか、あらゆる生きとし生けるものはどこか悲しげである。
これを書いている私も、これを読んでいるあなたも、外でさえずる鳥も、地中にうごめくミミズも・・・。
何億年も先人たちの生命の一部として包含されてきた私たちの生命は、
過去から未来に目を転じると、他の生命を自分の一部として包含している。
宇宙が誕生したときから生まれてくるまで、正確にいえば、生まれた後も独り立ちできるようになるまで、
何億年も「守られる」側であった自分が、初めて、「守る」側の存在として生き始める。
そして、そのような立場で生きることができるのも、何億年の時に比べれば、ほんの一瞬、一秒にすぎない。
私たちが一つの生命体として自分の人生を生きる理由は「守る」ことを体験するためである、といってよいかもしれない。
他の生命体と合一できない生来の悲しみは、「守る」ことによってのみ打ち消される。
見よ、鳥が巣の中の雛を守ることにいかに必死であるか。
私たちが先人の一部として包含されているとき、私たちはずっと深い暗闇の中にいただろう。
そして、母親の懐胎の瞬間、暗闇の中にひとつ小さな光が灯される。
その光は少しずつ大きくなり、心拍によって光の外を覆っている暗闇との交信を行いながら、ひたすら細胞の分裂を繰り返していく。
やがて、人間のかたちができあがっても、光の周囲には依然として、たっぷりとした暗闇が無限のかなたへ広がっている。
そのようにして生まれてきた子供たちはみな、すぐそこに無限の暗闇が広がっているのを知っている。
まるで友達のように、暗闇をのぞいてみたり、暗闇の側へさっと消えてしまったりするだろう。
その暗闇は、生命の根源であり、また、死でもある。
「守る」ために生まれてきた私たちは、大人になるにしたがい、暗闇を封じ込めることで生命を守ろうとするようになる。
そして、大人たちは、暗闇がすぐそこにあることをすでに忘れてしまっているかのようにふるまうようになる。
しかし、暗闇の存在を忘れてしまった人間は、不意の出来事で光から逸れてしまったとき、
自分の軌道を見失い、あわてて光の中へ戻ろうとすることしかできない。
もはや、暗闇に生命の根源を見ることができないからである。
だが、あわてて光の中へ戻ったとしても、そこにはもう彼を生かす場所は用意されていない。生命は、即座に危険に曝される。
どのように、生命を「守る」のか?
彼は、暗闇で目を凝らして、じっと自分に耐えていなければならなかったのだ。そこから新たな光を見いだすときまで。
---もう何も、封じ込められることのない空間をつくっていく。
(2020.5.5 コロナ禍の下で)
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